陀羅尼助とは
千三百年の時を経て、
現代に受けつがれる伝統薬
陀羅尼助は飛鳥時代から伝承されてきた民間薬と言われており、厳しい山篭もり修行を行い修験山伏たちの持薬として、また関西地方においては家庭常備薬として広く知られています。和漢薬の元祖と言われる陀羅尼助の伝統は、現在も天川村大峯山洞川に息づいています。
胃腸に効く
陀羅尼助丸
六つの特徴
自然が育み、人が紡いだ銭谷小角堂の
優しい胃腸薬「陀羅尼助丸」
天然の生薬由来
伝統的な胃腸薬である陀羅尼助の有効成分は、いずれも天然植物由来の生薬から作られています。
和漢胃腸薬
日本独自の漢方処方を和漢薬と呼びます。長い歴史を持つ陀羅尼助は、和漢薬の元祖のひとつとして知られています。
第3類医薬品
陀羅尼助丸は、現代医学においても効能・効果が認められ、法律で定める第3類医薬品に分類されています。
お子さまから大人まで
陀羅尼助丸は、直径4ミリほどの小さな丸薬で、お子さまや高齢者の方にものみやすいお薬です。
1300年以上の歴史
陀羅尼助の歴史は、飛鳥時代に端を発し、長い歴史の過程で丸薬と姿を変え、広く知られるようになりました。
銭谷小角堂
銭谷小角堂は、古くから大峯山洞川に店を構え、修験山伏や、観光に訪れる人々へ陀羅尼助を提供してきました。
陀羅尼助の起源
飛鳥時代の斉明天皇3年(657)のこと。
内大臣の藤原鎌足が急に腹痛をおこして苦しみ、天皇は大変に心配して、百済の禅尼法明に維摩経を唱えさせた。すると験があり薄紙をはぐように鎌足の腹痛が治りました。ところが一説によると、実は役行者が鎌足の病気をなおしたとも伝えられています。
その頃、疫病が、大和、河内、摂津から山城、近江と広がり、朝廷では医師を派遣したり薬を配給しました。この時、役行者は道場茅原寺(今の奈良県御所市茅原吉祥草寺)の門前に大釜を据えて薬草を煎じて呑ませました。さしもの疫病の大流行もおさまり、役行者に対する民衆の信頼は一層高まりました。
役行者には、前鬼・後鬼と呼ばれた弟子がいました。
行者には大峯山で修行中に、今後山中で修行する山伏達のため山中に多いキハダの皮から万病に効く「だらすけ」の製法を後鬼に伝授しました。
これが大和洞川の陀羅尼助の起源とも伝えられています。陀羅尼助の主原料は黄柏すなわちキハダです。キハダは古くから朝廷に貢物として納められていました。
江戸の町で流行
史実上、陀羅尼助の名が出てくるのは文楽浄瑠璃で、延享4年(1747)大阪竹本座で上演された『義経千本桜』には「洞呂川の陀羅尼助」の請け売屋が出てきます。また『役行者大峯桜』寛延4年(1751)では、苦味ばしった男役「陀羅助」が登場し「だらすけ」の口上を唱えます。陀羅助が自分の名を薬の名にして、竹の皮と箱を提げ在所を売り歩いたとあり、陀羅助の名が知られていました。
陀羅尼助の陀羅尼は仏教の<総持>の意味で、助は救助する薬を意味し、経典にも陀羅尼経というのがあります。
その効能から遠く江戸にも、、、
また、その効能から遠く江戸にも送られ、江戸の薬問屋相模屋では、陀羅尼助の効能書を刷り込んだ紙に包み販売していました。
その効能書には、役行者御夢想「大峯だらにすけ」御免として菊の御紋が刷り込まれていました。
文化年間(1804~1818)には、その売価は1包24銅となっています。
銭谷小角堂、
屋号の由来
歴史ある陀羅尼助をお届する銭谷小角堂は、役行者の幼名である役小角(えんのおづぬ)を屋号の由来とし、今昔変わらぬ伝統を今に伝えています。
銭谷小角堂について弱った胃腸を
優しく癒やす。
便秘や軟便でお困りの方。
食べ過ぎや食欲不振など胃腸が弱っている方。
二日酔いや胸やけが辛い方。
そんな時は銭谷小角堂の和漢胃腸薬「陀羅尼助丸」
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